歌舞伎を見に行くと、主演などの役者さんが、花道で見得を切ったり、見せ場の演技をしたときに、観客席の奥の方から鋭い声色で「成田屋っ!」「播磨屋っ!」などと声がかかるのをお聞きになった方は多いと思います。
この○○屋というのは、役者さんの「屋号」と呼ばれるものです。
屋号とは、舞台で演じる役者さんそれぞれが属している「お店」の看板名とでもいえるものです。
その由来と意味をご紹介しましょう。
屋号の由来とは?
日本では明治時代に至るまで、公家や武士、あるいは幕府などから特別な許可を得た人々以外の一般庶民は、名字を名乗ることはできませんでした。
しかし、次第に都市部での人口が増えてくると、「平次」、「甚兵衛」など、下の本名だけでは判別が難しくなってきました。
そうした商売上の要請もあって、商人や大きな農家などでは、生まれた地名やゆかりのある物事などから採用して、家ごとに独自の名称を名乗るようになりました。
今で言うならば、社員や関係者が所属する企業名、団体名といったものです。
これが屋号の始まりです。
歌舞伎役者の身分は江戸時代にはまだ低く、いわゆる「士・農・工・商」よりさらに下に位置づけられていました。
歌舞伎の始祖とされる「出雲の阿国」が京都の鴨川の河原で演じていたことからか、「河原者」といった名称もあったそうです。
その後、歌舞伎が庶民に普及し人気を集めてくるとともに、江戸幕府は役者を「良民」として認め、一定の身分に引き上げました。
ある意味で、「士農工商」の最も下である商人に並ぶ地位に来たとみなされ、この頃から町の表通りに店や住まいを建設することができるようになりました。
財力のある役者がこれらの店を構える際に、商人に倣って屋号を付けたのが、歌舞伎の屋号の始まりとされています。
主な屋号の由来を、一つの説ではありますが、いくつかご紹介しましょう。
音羽屋(尾上菊五郎の系統)は、初代の父が名前から来ているとされます。
沢瀉(おもだか)屋(市川猿之助らが属する)は、特徴ある演目の人物が着る鎧の紋が由来とされます。
中村屋(中村勘三郎ら)は出身地から。
成駒屋(中村歌右衛門ら)も元は出身地の「加賀屋」を名乗っていたそうですが、他の家との縁結びの際に将棋の駒の衣装を贈られたことをきっかけに、「成駒屋」と称するようになったとの説があります。
市川團十郎や海老蔵で知られる「成田屋」は、初代が成田不動尊をうやまっており、そのご利益にあやかって命名したとされています。
屋号の意味は?
現在でも、歴史が古い企業や団体などは、いわゆる伝統的な「社風」、「チームの特色」などを備え、それを社員らが代々受け継いでいるものです。
歌舞伎の屋号もこれと似ています。
屋号はその家が持つ独自の芸風や伝統文化を表すものです。
ですから屋号ごとに芸の特色などが異なり、そこに属する役者さんたちはその屋号らしい芸と伝統を守っていくことが重要になります。
歌舞伎役者の場合、同じ名字でも屋号が異なることがあります。
中村吉右衛門と中村勘三郎は同じ「中村」という名字ですが、前者の屋号は「播磨屋」、後者は「中村屋」というように違っています。
逆に名字が異なっていても、同じ屋号に属する役者もいます。
松本幸四郎と市川染五郎は名字が違いますが、両者とも屋号は同じ「高麗屋」です。
独自の芸風や伝統を重んじるのが屋号ですから、指導を受けた師匠の違いなどによって、同じ一族でも兄弟で屋号が異なったり、同じ名跡を代々継承していくうちに屋号が変わる、といったケースもあります。
現在でも、役者さんや歌舞伎界の関係者は屋号をとても重んじています。
お互いを声かけあう際も「成田屋さん」、「成駒屋の兄さん」などと屋号で呼ぶことが多いとされます。
贔屓のお客さんからの声かけが屋号であるのも、役者の「芸」のすばらしさをたたえる、そうした背景があるからといえるでしょう。
ちなみに役者さんのことを呼ぶ場合も「市川さん」、「尾上さん」などと名字では決して言いません。
必ず下の名前である「海老蔵さん」、「勘三郎さん」と呼ぶか、あるいは長い名跡の場合は「○代目さん」などと言うこともあるようです。
まとめ
歌舞伎の役者の屋号は、もともとは江戸時代に、役者の身分が商人並みに引き上げられた際、表通りに店を出すために看板名としてつけられたものです。
歌舞伎の屋号は、企業の社風といったものと同じく、その屋号独自の芸風や伝統文化をそれぞれが持ち、長年にわたって受け継いでいます。役者の名字が違っても屋号は同じ、というケースも少なくありません。
歌舞伎界では芸の特色や伝統を守る屋号がとても重要な存在であるといえます。